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人間関係を心地よくするには


人間関係をよくするにはシータヒーリングの学び


人間関係を心地よくするには、何が必要なのでしょうか。

これを学問的に学べる場がほとんどないように感じます。

学校生活の中でも学んで行きますが、人間関係に必要なものを学べる事件は偶発的。ある意味行き当たりばったりなので等しく指標としてそれを学問的に学べる機会は少ないと思います。


人間関係で必要なのは尺度です。

言い換えるなら、識別と境界線です。

小学校の低学年で「自分を大切にしましょう」という命の授業があります。

が、じゃあ相手と自分、どちらをどの程度まで優先したら、大切にしたら人間関係のバランスが取れるのか?どんな相手にどこまで向き合えばいいのか?どこまで誰に自分を明け渡しても安全なのか?どんな場合に集団の協調性をはかり、いつ自分の気持ちを大切にしたら良いのか、そんなことは学校で教えてくれません。


だから大人になってから、自己流の基準や尺度でぼんやりとして掴みどころがないまま人間関係に翻弄されてきた人が、パンクします。自主練化された野良学問。


例えば家庭内でネグレクトや精神的、肉体的虐待がある子ども。

まず、それを隠します。

助けてと言って良いんだということをどの場面でも習っていないから。

そもそも他の家庭の家族像を知らないから、自分の家庭がおかしいぞ?と気づかない。


おかしさに気づくためには、きちんと学問として尊重されるというのはどういうことなのか?親が子どもに生きる術を教え自立心を育むために指導する場面があって、どんな基準で指導している時が尊重ありきの指導なのか?ということなどを学べる機会が必要だと思います。

その指導は親のエゴイズムに基づいてはいないか?怒りに任せた押さえつけではないか?支配やコントロール欲に基づいてはいないか、など「尊重」ひとつとっても学ぶことはたくさんあります。


とはいえ、これは世界共通の定義観点があるわけではないので、なかなか学問にはしづらいと思います。

そもそも教える教員が生徒を支配しようという人間性だったり、公平な価値観を持っていない場合、こんな学問を生徒が学んだら不都合だらけです。間違いを指摘されます。

だから難しい。だから、野良学問として偶発的に何か事件が起きた時に個々で学んでいくというスタイルになっているのだと思います。


道徳の授業では、エピソードに対してこの登場人物の行動や考え方はどうなのか?を学ぶかも知れません。

でも、学問として学んで来なかった教員が、果たして生きるために必要な、人間関係を構築するのに必要なテーマを投げられるでしょうか。

その登場人物の行動をジャッジするのではなく、人の心の動きや問題行動の中に内包された判断基準に触れられるでしょうか。


例題として、小学校中学年向けに「雨の日に傘を泥棒した人がいて、後日それが傘の持ち主にバレたけど、謝らなかった」というエピソードがあるとします。


まず泥棒。人のものを盗んではいけません、ですよね。じゃあ、何で盗んではいけないのか。泥棒側の言い分は、「傘がないと濡れてしまう、風邪ひきたくないし、自分を大切にした結果だ!自分を守る自由がある!」だったとしましょう。

自由?自由の定義観点とは?どこまでが許容される自由で、どこから制限される?制限される理由は?


自分を大切にする?自分を大切にする、ということは人生そのものを大切にすることだと、この泥棒は知っているのかな?物事をその場凌ぎで単発的に捉えると、長期的な目線で見た時に、その行動は自分の評判を傷つけていないか?それは自分を大切にしていると言えるのか?


自分の事情だけを考えて生きる時、他者はどう感じどんな迷惑を被るんだろう?傘がなくて濡れて帰った持ち主が「風邪を引かずに自分を大切にする自由」を得られなかった件は、どう考える?誰かを犠牲にして手にする自由は認められるのか?

その自由の手に入れ方が間違っていない、という基準のまま生きて行くと「無いならあるところから奪えばいい」という特殊詐欺を簡単にやってのける人間になるわけです。だからこそ、人生の早い段階から人間関係における自由や尊重を学ぶ場が必要だと思います。


人間関係は必ず相手を伴います。

時に自分の自由を主張しない「我慢=律すること」も必要です。我慢を全くせず他者なんてお構いなし、も人間関係を崩壊させますが、我慢の「程度」もここで同時に学ばないと片手落ちです。我慢してはいけない場面で相手を優先し過ぎて自分を壊してしまう可能性があります。

「僕を殴るお母さん。でも僕が我慢しないとお母さんが困るから黙って殴られよう」これは相手の事を考えてする我慢ですが、自分を律する我慢とは全然違います。不当な自己犠牲の上の我慢は必要ですか?どちらかが苦しい人間関係になりますよね。


傘を盗んだ人が威圧的で、盗まれた人が気弱な場合「それ私の」とか「返して」はもちろん「雨に濡れて大変だった!謝って!」と主張することは難しいでしょう。

でも、気弱だったとしても、予め自己を侵害された時は自分の権利を守るために主張しても良い、ということを学んでいたなら、それを学問として学び、どんな行動が道徳的に良いのかの基準を持っていたなら、お墨付きを得た状態で悲しかった気持ちを相手に言える、言うことは間違いじゃない、と勇敢さを持てると思いませんか?


また、相手に気持ちを伝えたり、言ってあげることが相手のためになる場合がある、という視点もこのエピソードを使って教えようと思えば教えらますよね。

窃盗する人は道徳心や罪悪感に縁遠く、奪うのが当たり前の価値基準で育てられたのかもしれないのですから。「悪」と決めつけないで相手の置かれた状況の可能性も加味して考える視点も養えます。

それを指摘するのも相手に気づきを投げかける行為であり、優しさです。

自分さえ我慢すれば丸くおさまる、は自分にも相手にも優しくはない。


道徳という授業があるなら、言葉を深掘りしてその言葉の定義観点を考えてみる、時間をかけて一つのエピソードから様々な考え方を教員が投げかける、という構成に教科書自体を変えたらどうかなと思います。


自由、尊重、愛、自立、協調、優しさ、受け入れるということ、許す、正義、まだまだありますが、一つの単語でたくさんの定義観点が書き出せると思います。人の数だけ意見が出るでしょう。


そもそも愛とは何なのか、どれが愛で、どれがエゴ的支配なのか、どれが卑屈さや自信のなさから来る歪んだ形の愛なのか、どこまでが愛なのか?正義という行き過ぎる傾向のある単語なんて、偽善やジャッジなど様々に深掘りして語れますよね。


これを小学校6年間かけて学んだら、前世代のぼんやりした道徳心ではなく、「考えながら」「臨機応変に」「相手の立場や考え方も踏まえた上で」どう対応し心地良い人間関係を作れるか、分かるようになると思いませんか?


シータヒーリングって、何をやっているかというと、普遍的な定義観点を顕在意識と潜在意識、細胞に教える、ということをやっているんですね。

人間の定義観点はブレブレで、時代によっても変化したり国によっても変わるものだから、そもそも自分らしくポジティブに心地良く生きる為に普遍的な定義観点を持っていたらそれが出来るよね、という。


ヒーラーも、シータヒーリングを学んだからと言ってすぐすぐその定義観点が自分の血肉になるわけじゃないですよ。

「人を助けたい!」と多くのヒーラーは思います。

でもその助ける、ってどの視点から言ってる?どこまで助ける?

どこまで助け、どんな助け方をするのが相手のため?

その助け方は自分を犠牲にせず、ちゃんとまず第一に自分を愛しながらやれてる?

その言葉は今目の前の相手が必要としている言葉?

その手助けはして良いものなの?相手のことを本当に考えるなら、手助けしないという選択が優しさであり相手の自立や成長を促すことになる場合もあるのでは?

相手を見守ることと、突き放すことは別で、分かってもらえなくても相手にとって最善のアプローチをすることが長期的にみて必要では?

こんな風に、ヒーラーも日常で、そんな場面を経験しながら学んだ事を真に自分の定義観点と一致させて、シフトしていきます。


同時に、学校で習って来なかった物事の見方考えかた、先程書いたような自由や愛などについて、学び直しして行けるのがシータヒーリングです。何歳になっても学べるし、学び直しできます。いい人生だったな、と最期に思えるのはきっと、人間関係の安定もそうだし、何より自分で自分のことを大好きになれて、満足することでしょう。素晴らしい定義観点を学んで自分にものにすることは、美徳を得るということ。美徳をたくさん持っている自分の数年後を想像してみてください。ね、学ぶのって楽しいですよね。



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